2017/03/18

デイヴィッド・アトウェル──切り抜き帳(2)

第1章 An alphabet of trees. Autobiography - The uses of impersonality を読み始めるとすぐに、この本のサブタイトルは『マイケル・K』の草稿からとられた、と出てくる。スヴァルトベルグ山脈にこもったマイケルのつぶやきだ。そして、クッツェー文学の核を言い当てることばが続く。重要な箇所なので訳してみる。

「時間/時代と向き合うこと」はクッツェーがフィクションを彼自身と歴史、および、彼自身とその倫理性のあいだに置く方法を伝えている。それは高度に自己を意識する方法で行なわれるため、結果としてクッツェー作品への批評は小説のメタフィクション的な特質をめぐる論評にあふれることになる──つまり書くことについて書くということだ。クッツェーのメタフィクションがめざす最も苛烈なところは、しかしながら、それが鋭い実存的問い、たとえば「この本にはわたしのための、そして、わたしの歴史のための場所はあるのか? ないとしたら、いったいわたしは何をしているのか?」という問いによって自分を試す手段だというところである。書物とはある意味、その作家が存在するという謎に答えなければならない。クッツェー作品とは、フィクション化された自伝にもとづく、巨大な実存的試みなのだ。この試みのなかで自伝と印されたテクストは、フィクションと印されたテクストとひと繋がりのものであり、フィクション化の度合いが異なるだけなのだ。

アトウェル(右)とクッツェー
‘Face to face with time’ conveys the way Coetzee puts fiction between himself and history, between himself and his mortality. It does this in highly self-conscious ways, with the result that Coetzee criticism is filled with commentary on the novels’ metafictional qualities – the writing about writing. The most trenchant of the purposes of Coetzee’s metafiction, however, is that it is the means whereby he challenges himself with sharply existential questions, such as, Is there room for me, and my history, in this book? If not, what am I doing? The book must in some sense answer to the mystery of its author’s being. Coetzee’s writing is a huge existential enterprise, grounded in fictionalized autobiography. In this enterprise the texts marked as autobiography are continuous with those marked as fiction – only the degree of fictionalization varies.  ──David Attwell, J.M.Coetzee and the Life of Writing, p2.