2013/03/21

ジョン・クッツェーとの時間(2)

リアン・マランが「10年いっしょに働いてきた同僚がたった一度しか彼の笑ったところを見たことがないそうだ」などと述べたことについて、アラブ圏の雑誌 Nizwa のインタビューに、クッツェーはこう答えている。
 「リアン・マランにはこれまでたった一度しか会ったことはない。彼は私のことを知らないし、私の性格を云々する資格はない」(Kannemeyer の伝記:p583)

 またこのとき、イラク人インタビューアーのアデーブ・カマル/Adeeb Kamalが、クッツェーの作品をアラビア語へ翻訳したいと考える者へのアドヴァイスを、と訊くと、彼はこう答えている。

「ページ上のことばと、文の形/shape of the sentences に注意すること」(同上)

 これはメルボルン大学が出したMeanjin の翻訳特集号「Tongues」で彼が述べていたことと重なり(この文章はのちにオクスフォード出版局から出た Translation and the Classic に収録された)、「文の形」というところで少し広がる。ヨーロッパ言語以外の言語への翻訳を考慮したことばと考えていいだろうか。

 雑誌「フェア・レディ」(1983年8月号)のインタビューでは、彼の「暗い」小説について挑発的に「だれもがわたしの本のなかに荒涼たる絶望を見ている。わたしにはそんなふうには読めない。自分はコミックブックスを書いていると思っている。ごくふつうの人たちについて書いている。ごくふつうの、さえない、幸せな暮らしをしようとするのに、彼らを取り巻く世界が粉々になっていくような」と彼は語っている。(伝記:p428)
 1983年というと、クッツェーはまだ43歳、『マイケル・K』が最初のブッカー賞を受賞したときだ。南アフリカというと、聞き手はとにかく「アパルトヘイトの暴虐」について作家たちからことばを引き出そうとした。そんな意図にはのらない、という頑固な意思表示でもあるだろう。なんとも皮肉のきいた発言だ。

 こんなふうに、80年代半ばまではクッツェーも新聞記者や文芸評論家のインタビューをかなり頻繁に受けていた。しかし、ある時点で彼は自分の作品について語ることをやめた。その徹底ぶりはすごい。これは、語られることばよりも、書かれたことばに絶大な信頼を置く、置こうとすることのあらわれといえる。それがこの作家の大きな特徴なのだ。
 さらに、自分の語ったことが誤解されるのを避けるために、引き受けた対話では、質問にもちいられたことばの定義から始まったりする。また、相手の文脈にすぐにのらないため、沈黙がしばし長引く、という居心地の悪さを質問者は感じることもあるだろう。とにかくインタビューアーは、彼の作品をとことん読み込んでのぞまなければ、対話は成り立たない。

 そう考えると、ジョンの学生時代からの友人、ジョンティ・ドライヴァー(ドロシー・ドライヴァーの兄)の次のような発言はうなずける──「僕はときどき、ジャーナリストが彼のことを気難しいと考えたがるのは、そのほうが、わざわざ本を読まなくても、なにか書くことができるからだと思うことがあるな」(伝記:p424)

 最新作『The Childhood of Jesus』は、カフカエスクというかクッツェーエスクというか、書き出しはなかなか厳しい、切ないと思いながら読んでいくと、これが案外、にやりと笑わせる場面が多い作品だとわかる。これはまた途方もなく野心的な意図が隠された小説でもある。教育、数学、哲学、宗教、文学など、ギリシア古典からの引用やアリュージョンが半端じゃない。それもヨーロッパ文明の源まで遡るきわめてチャレンジングな視点を含み持つ。しかも、彼の自伝的チップがいつもながら、豊富に埋め込まれている。

 いずれにしても言えることは、南アフリカを離れてアデレードに場所を移してから、彼の諧謔趣味はより一層強まったように思えることだ。『Diary of a Bad Year』でもそれはすでに見えていたが、自伝的三部作の最後『Summertime』ではピリ辛の笑いが炸裂する。そしてその傾向は、よりスパイシーにはなっても、決して消えることはなさそうだ。(つづく