2012年3月12日月曜日

定型の強さ、恐さ──昨日、スタジオイワトで

詩人、藤井貞和の『東歌篇──異なる声 独吟千句』(定価500円 反抗社出版 カマル社制作)のリレー朗読/ピアノつき、に参加して思ったこと。それは、日本語が内包するリズム、五七五七七五七五七七・・・のすごさだった。いやあ、面白かった!

 20人あまりの人たちが参加して、一区切りずつリレーで読み、それに高橋悠治のピアノ即興演奏が絡むという趣向。作者である藤井貞和がまず最初の「少年」を読み、それを受けて参加者の1人が「祈念」を読み、そして次の「鎮魂」は前夜、急遽参加することになったという2人の琵琶師による詠唱となった。
 それまで、どちらかというと「ぼそぼそ」というふうに読まれていた詩が、ここへきてメロディーをもつ歌となり、詠となり、enhanced されたことばとなって琵琶の音とともにあたりに響いた。

 当初の説明では、わからない漢字が出てきたら作者である藤井貞和に質問し、相互やりとりを経ながら、ゆっくりと進行するはずだった。がしかし、細部はさておき、リズムにのって、どんどん先へ、先へと朗読は進んでいった。

 途中、あれ、その読みでいいのかな、ちがうよなあ、と内心思いながらも、その場の雰囲気に水をさすのもためらわれ、まあ細部はともかく、「鎮魂」ムードにのって粛々と、という雰囲気でいやます勢い、いやそれだけではなくて、次に読むのはだれかな? わたしか? なんて緊張もすこしあって、少しの緊張も20余人分天井へ螺旋となってのぼっていくか、とか、いろいろ脳裏をよぎるなか、あっというまに最後の行へ到着してしまったのだ。

 この間、約1時間と15〜18分。

 当初はもっとたっぷり時間がかかるものと主催者は考えていたらしい。少なくとも2時間、いや3時間以上、だらだらやると・・・。しかし・・・。

 意識するとしないとにかかわらず、日本語に埋め込まれている定型のリズム、身体に刻み込まれているリズムは恐るべし、あなどれない、そのことをあらためて認識した一日であった。

 この『東歌篇──異なる声 独吟千句』は、文字で読んでいるときは、定型のなかにもひょんと肩の力を抜くユーモアが組み込まれている。だから、内心くすっと笑いながら読むことになるのだが、昨日、声になった詩ではその「ユーモア性」がどこかへすっ飛んでしまっていた。このことは参加者の一人がいっていたのか、いや詩人その人がいっていたのか。確かに。

 終演後、福島のお酒を飲みながらだらだらと話すなか、高橋悠治が述べていたことばが心に残っている。それは、切る箇所を変える、つまり、五と七、七と七、のあいだを切らず、またぐようにすればいい、ということだったと記憶している。そうか。

 北海道という開拓地の出身者であるわたしは、内地のヒョウジュンを学び、追いつき、合わせようとする教育のなかで育ったせいか(どうか?)、なんとか抗いたいと思いながらも、みんなに合わせっちまって・・・ああ、力の抜き方が足りなかったぜ、と自省するばかり。ハハハ。
(敬称略)

 最後に、企画の八巻美恵さん、ありがとう! 平野公子さん、福島のお酒、おいしかったです!

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付記:朗読後の質疑応答のなかで、高橋悠治さんがした質問と指摘は記憶されるべし、であった。近世にあったさまざまな日本語のリズムが、近代化とともに「軍歌」と「詩吟」に収斂されていったという指摘である。(このまとめ、これでいいのかな?)

2012年3月5日月曜日

3月11日は「スタジオイワト」で声を出します


 つぎの日曜日、3月11日はいろんなところで、いろんな催しが予定されています。デモに行く人、開催する人、福島まで行く人、銀河鉄道の朗読会など、本当にさまざま。
 
 東京の今年の寒さがちょっとこたえる身としては、スタジオイワトを選びました。藤井貞和さんの『東歌篇━異なる声 独吟千句』をリレー朗読する会です。

 「3.11を真正面から受け止め、リアルタイムでひとりうたいつづけた藤井貞和の・・・」とちらしにもあるように・・・

 詳しくはこちらへ

 藤井貞和さんは「水牛」でご一緒させていただいている、大先輩の詩人です。今回、参加させていただくことにした大きな理由のひとつは、藤井貞和という詩人が奈良に生まれて育ったということです。この詩人の日本語感覚、これが不思議なまでに面白い、というか、彼が生み出す日本語の詩は、北海道の片田舎に生まれ育ったわたしのような人間には、もう、ほとんど異言語空間に近い。この感覚をもう少しあらわにしてみたいと思ったからです、自分なりに。

 日本語の「中心」はどこにあるか? という問いとも重なります。from provincial life ということとも。

 さて、当日、どうなるか。異郷感覚で朗読する旧植民地=北海道出身者の言語は、どうなるか? 自分でも、どきどき、いやいや、すごく楽しみです。

2012年3月3日土曜日

アニヴァーサリー・ブルースは歌えない

今月の「水牛のように」に詩を書きました。

 アニヴァーサリー・ブルースは歌えない

もうすぐ「3.11」から一年になります。でも、でも・・・

2012年2月29日水曜日

書評:中村和恵著『地上の飯』

抱腹絶倒、腹の底から笑える本だ。笑うのは身体にいい。それでいて本を閉じるとしんみり、適度の湿気に、心も活気づく。

 話は世界中の食い物についてである。南インドの古都マイソールで食べた「皿の上の雲」さながらのふわふわ蒸しパンから始まり、カリブ海の小さな島ドミニカ島のむせるような果物の匂い、トリニダード島で何杯もおかわりした(島に住みつづける)作家アール・ラヴレイスお手製の魚汁、タヒチで食べた生マグロのココナッツミルク和え、オーストラリア先住民のおばさんおじさんが食するぱりぱりに火で炙った幼虫、さらには欧州北部はエストニアの首都タリンのお菓子まで、多種多様な人間と食物がお出ましになる。まさに七つの海の皿めぐり航海記である。

 札幌郊外で少女期をおくった中村和恵さんは、つらら食い、踏むと片栗粉のようにきしきし音をたてる粉雪、吹雪のなかを橇を引いてお餅を買いにいった話など、記憶の宝物箱から取り出した北国の冬をふんだんに物語る。あの冬を身体深く記憶しながら、そこから遠く離れてしまった評者のような者には、たまらない懐かしさである。がしかし、もちろん、そこで話は終わらない。

 比較文学という仕事がら研究資料をもとめ、あるいは作品の舞台となった土地を実踏するため、著者はジェット機に乗って軽々と国境を越える。訪れた各地で食したものたちについて、歴史や文化や植民地支配がもたらした結果などを絡めて、蘊蓄に富んだ話がわかりやすいことばで論じられるのだ。たとえば「じゃが芋、トマト、チョコレート、ナツメグ、胡椒、コーヒー、お砂糖、といったおいしいものを、マリー・アントワネットさまやそのお友達及びご子孫の方々がふんだんにおほほ、と食べてこられたのは」なぜか。本書を読めばすっきりわかる。

 パンチのきいた、すばらしい着地の文章を読んでいると、読み終わらないうちから、おかわり! といいたくなった

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北海道新聞に書評を書きました。掲載日は2012年2月26日(日)。『地上の飯』は平凡社刊、1980円です。ぜひ、本屋さんで!

2012年2月26日日曜日

『子ども東北学』──身につまされる記憶!

「まん中はどこにある?」──そう、まん中ってどこにあるんだろう?

 どこから引用すればいいのかな。どこを取りあげればいいのかな。迷ってしまう。それぞれの章が遠い記憶と結びつく。近いいまとも結びつく。これからと、どう結びつければいいのかな。そうなのか、と学ぶことも多かった。そうだったよなあ、と膝うつこともたびたびあった。

 田舎と都会。土と野原と、川と海と。生き物たちの傷ついた世界、わたしたちの生き物としての身体が内部で日々、傷ついてきた長い時間。傷つけてきた「便利で」「豊かな」、「モダンな」暮らし。それがあらためて露になったいま。東北だけじゃないけれど、日本だけじゃないけれど。

 東京というちいさな中心に生きながら、from provincial life を発信できる人がここにいる。おすすめです。

2012年2月20日月曜日

『明日は遠すぎて』──チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ

お待たせしました!

 チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの第二短編集『明日は遠すぎて』の画像が、ネット書店のサイトにアップされました。

 ナイジェリアのストーリーテリングの名手が放つ、切なくも愛おしい9つの物語。最年少でオレンジ賞を受賞し、一躍世界に注目された実力派の、O・ヘンリー賞受賞作を含む最新短編集。

 これは版元、河出書房新社のサイトにある説明ですが、それぞれの作品は第一短編集『アメリカにいる、きみ』よりも、さらに密度が増したように思います。
 アディーチェは34歳、まだまだ成長途上にある作家です。楽しんでいただけると嬉しい! 3月10日の発売です。(付記:Amazon によれば)後記:13日に変更されました。Sorry!

2012年2月16日木曜日

「クッツェーを読むことは」by Peter McDonald

面白い映像を見つけた。ピーター・マクドナルドが J.M.クッツェーとその作品について語るものだ。

「アパルトヘイト体制下の南アフリカで書くということは、監獄のなかから書いているようなもので」とクッツェーが述べたのは確か1987 年のイェルサレム賞受賞スピーチだった。当時の南アフリカで実施されていた厳しい検閲制度について詳細に論じたのが「文芸警察/The Literature Police」。(これについてはこちらこちらへ)その著者、ピーター・マクドナルド/Peter McDonald がオクスフォード大学で、「彼の作品を読むことは、英語が話されているもうひとつ別の国へ旅するようなものだ」とレクチャーしている。「偉大な作家シリーズ」のひとこまである。

 1964年にケープタウンで生まれたマクドナルドはクッツェーの次(の次?)世代にあたり、いってみればクッツェーとは親子、ほどの年齢差がある。そんなマクドナルドがクッツェーを論じる視点は、デイヴィッド・アトウェルなどクッツェーと同時代の研究者にくらべると、時間的にも空間的にもぐっとパンした視線からとなる。つまり、カメラ位置がぐんと後ろに下がっているのだ。だからスカッと見通しのいいランドスケープのなかにクッツェーを置いて論じてくれる。世界で使われる英語という言語、その英語を使った文学活動としてのクッツェー作品、という視点である。ふむふむ。

 マクドナルドはケープタウン出身だから、もちろん、クッツェー作品の英語がどんなコンテキストから生まれてきたか、手に取るように理解している。作品で使われる英語が、一見、端整な、オーソドックスな英語で書かれているように見えながら、じつはそこに含まれる固有の異質性をも的確に理解、読み取れる位置にあるのだ。
 マクドナルドは、そんなクッツェー作品を、作品内に埋め込まれた「名前」をキーにして読み解いていく。あるいは「Disgrace/恥辱」の冒頭に書かれた「五つの語」を手がかりに、この作品がどんな手法で、どのような戦略で書かれているかを分析する。

 ひとことに英語文学といっても、多種多様。作家と作品を生み出したコンテキストの奥の深さを理解しなければ、「世界文学」とよべる作品の翻訳は難しい時代にきているのだな。心しなければ。