今年もまた、ナイジェリアのラゴスで9月下旬、10日間の「ファラフィナ・ワークショップ」が開かれた。このワークショップは、2004年に雑誌「ファラフィナ」を創刊したムフタル・バカラと作家チママンダ・ンゴズィ・アディーチェが設立したNPO「ファラフィナ・トラスト」が、作家を育てるために毎年開いてきたもの。
今年で3度目を迎えるこのワークショップ、申し込み者のなかから参加者をしぼりこみ、期間中は泊まり込みで徹底討論するという。参加経費はすべてスポンサーが提供。今年からそのスポンサーが変わった。昨年までのフィデリティ銀行から「ナイジェリア・ブルーワリー」というビール会社にバトンタッチされ、むこう3年間はこの会社が受け持つという。ちなみに出版社を起こして、アディーチェの第一作『パープル・ハイビスカス』のナイジェリア独自版を出版したムフタル・バカラは、なんと元銀行マン。
写真はワークショップ最終日にラグーン・レストランで開かれたリーディングの夕べのようす。5人のファシリテイターは、左からチママンダ・ンゴズィ・アディーチェ(ナイジェリア)、ビンヤヴァンガ・ワイナイナ(ケニア)、ジャッキー・ケイ(英)、ドリーン・バインガーナ(ウガンダ)、ネイサン・イングランダー(米)。
photo:©Abiodun Omotoso
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2009年11月9日月曜日
第3回ファラフィナ・ワークショップ
2009年11月1日日曜日
荷物運ぶ「キックスケーター」── アフリカは遠いか?(その3)
「アフリカは遠いか? ─ その3」
宝物のように取っておいた切り抜きがあります。8年以上も前の記事ですが、いつか、どこかで、必ず書こうと思っていました。
まず、記事を読んでください。キャプション入りの写真も見てください。(写真をクリックすると拡大します。)
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★世界発2001★「自前 こだわりの装備/ルワンダ」──世界のくらし
ルワンダ西部の山間地で「キックスケーター」がはやっていた。日本でブレークしたあのキックスケーターと、構造に違いはない。人が乗る板、ハンドル、前後に小さな車輪がつく。進む時に地面を足でけるのも同じだ。
遊ぶためや街中をおしゃれに駆け抜ける道具ではない。少年たちが買い物や給水などに使う。「イキジュクトゥ」という武骨な名前がある。現地のことばで「荷物を運ぶ木製のもの」を意味するという。
手作りで木製。廃品タイヤを切って車輪を覆ってある。後輪の泥よけのようなゴムの覆いはブレーキらしい。自転車のベルを付けたり、板とハンドルをつなぐ部分に金属製のバネを使ったり。こだわりが装備に表れる。
下り坂はゴロゴロと音を立てて調子がいい。上りでは、降りて重い車体を押さなくてはならない。ファッション性も、輸送手段としてもいまいちだが、数十キロはあろうかと思われる大きな荷物と、こだわりを載せて坂道を行く。(ギセニ<ルワンダ西部>=江木慎吾)
<写真キャプション>
大きな荷物を積んだルワンダ版「キックスケーター」。この荷物、丘を越えて運ぶと800ルワンダフラン(約200円)=ギセニで、江木写す。
(2001年5月5日付朝日新聞より)
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前回紹介した『ルポ 資源大陸アフリカ』は、紛争や暴力といった烈しいテーマでなければなかなか新聞などでは取り上げられない現状を逆手に取って、あえて紛争地域に乗り込んだ記者が、海外支局に勤務する者でなければ書けないものをまとめた貴重なルポでした。
でも、書評を書きながら「もうひとつのアフリカ」の話がなければ、これもまたシングルス・トーリーになってしまうなあ、と思い続けていました。その、もうひとつの物語の例として、ここに短い記事を紹介しました。
ルワンダといえば多くの人が連想するのは、やはり「ツチ系」と「フツ系」ということばと共に思い出される1994年の内戦のことでしょうか。映画になったり、ノンフィクションが何冊も翻訳されたり。
でも、この記事は、ふつうの人たちの、ごくふつうの暮らしの断面をみごとに切り取っています。写真のなかのハンドルを握る男の人の表情もいいし、子どもの姿勢がまた、なんとも可笑しくて、面白い。
こういう記事は残念ながら、日々の新聞にはめったに掲載されません。おそらく、記者が本社へ送っても没になることが多いのでしょう。ニュース価値として低い、と考えられているからなのかもしれません。
でも、アメリカ(中米や南米はもちろん含まない)やヨーロッパ(イギリス、フランス、ドイツ、スペイン、イタリア、それにせいぜいオランダ、ベルギー、ポルトガルくらい)の場合は、文化欄や海外事情コーナーなどで、そういった情報が頻繁に記事になる。こんなふうに、大きな情報格差が当たり前のようになっていることに私はとても違和感をおぼえます。それがアフリカを遠くして、シングル・ストーリーの色眼鏡を作ってしまう、そんな気がするからです。
2009年10月27日火曜日
書評『ルポ 資源大陸アフリカ』── アフリカは遠いか?(その2)
「アフリカは遠いか?──その2」
10月25日付けの北海道新聞朝刊「ほん」の欄に、毎日新聞記者の白戸圭一さんが書いた『ルポ 資源大陸アフリカ』の書評を書きました。
今日、ネット版にアップされました。(追記:11月5日現在、翌週ページに移動したので、こちらにリンクを貼ります。)
800字という字数のなかに、シングル・ストーリーにならないように書くのは、ほとんど不可能に近いことでした。それでも、この本は「アフリカは遠いか?」という問いに、ひとつの答えを出してくれる貴重な本です。
2009年10月22日木曜日
シングル・ストーリーの危険 ── アフリカは遠いか?(その1)
「アフリカは遠いか?──その1」
木の葉が色づきはじめ、もうすぐ秋もたけなわ、といった感じですが、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『半分のぼった黄色い太陽』の翻訳もいよいよ佳境に入ってきました。
読者のみなさまにお届けするまでには、もう少し時間がかかりますが、最近のアディーチェの横顔を伝える動画がありますので、ご紹介します。
話の内容は「 The danger of a single story/シングル・ストーリーの危険」というタイトルによくあらわれています。
「アフリカ」というと饑餓、貧困、紛争、サファリ、野生動物、エイズで死んでいく人びと、とステロタイプなイメージしか持たない北側の人間の横柄さ、そして、それを許している世界のメディアに切り込む彼女のことばが新鮮です。ものごとを片面からしか見ようとしない人間の視野の狭さを、その危険性を、アディーチェはみずからの体験をふまえて、縦横に語っています。
軽くのぞいてみてください。ここです。ときおり笑顔を見せながら、野太い声と平明なことばで、説得力にみちたスピーチを聞かせてくれます。
ステロタイプを笑い飛ばす彼女の快活さに拍手! 笑い飛ばしながら、鋭い指摘をいくつもする知性にも拍手! まあ、拍手ばかりしてもいられないのですが・・・ね。
2009年10月8日木曜日
フィクションの枠内で虚実のあわいを漂う”クッツェー”
J・M・クッツェーは発表する作品ごとに奇抜な手法を使って、読者を驚かせたり楽しませたりしてきた作家だ。8月にHarvill Secker から出た『サマータイム/Summertime』は1997年の『少年時代』、2002年の『青年時代』につづく自伝的作品の最終巻で、その斬新な手法にまたしても誰もがあっけにとられた。
「自伝的作品」とするのは『少年時代』も『青年時代』も3人称現在形でフィクションとして書かれているからだ。作家の少年期、青年期の横顔を彷彿とさせるエピソードには、きらりと光る真実がチップのように埋め込まれている。
このような書き方の根底には、過去の自分をその当時の自分とは異なる存在が書いている事実をあいまいにしない、という意識的な姿勢がある。記憶や思い出を現在から見て都合よく変形しながら、1人称過去形で物語る従来の「自伝」という概念に対して、クッツェーは根底的な疑問をつきつけてきたといえるだろう。
今回の『サマータイム』ではさらに、手法の劇的変換が見られる。これがまたすこぶる刺激的で、端正な文体はじつに軽やか。
全体は7章に分かれ、第1章と最終章が作家の残したメモと断章で、まず第1章で米国から帰国した独身のジョンが、やもめの父親と廃屋のような家に暮らしていることが分かる。(実際は当時クッツェーには妻も子もいたし母親も健在、その事実は作品内から完全に消去されている。)
ところが第2章からは一変してインタビュー形式となり、ヴィンセントなる若い伝記作家が登場する。そして読者はいきなり作家ジョン・クッツェーがすでに死んでいることを知らされるのだ。
伝記作家は生前のクッツェーとは面識がなく、『ダスクランド』を発表して作家として出発した時期(1972〜77年)に焦点をあて、彼と親交のあった5人の人物にインタビューを試みる。その5人とは、帰国したばかりのジョンの情人となる人妻ジュリア、カルーの農場でジョンが唯一心を開くことのできた従姉マーゴット、ジョンが一方的にのぼせあがったブラジル人ダンサーのアドリアーナ、ケープタウン大学時代の同僚マーティン、やはり同僚でジョンの小説をフランス語に翻訳することになるソフィーだ。
とにかく女性たちの語り口がすごい。当時のジョンに対して情け容赦ないことばをあびせるのだ。そこに浮かび上がるのは、ヒッピーのように髭を生やして詩を書いている不器用な本の虫、他人に自分を開いて見せることができず、一族のあいだでも徹底的な変人として扱われる人物である。
フィクションという枠内で、虚実のあわいを漂いながら、あくまで外側から突き放したように自画像を描こうとする物語は、ときに可笑しく、ときに哀切で、痛々しいまでに苛烈だ。「他者に語らせる自伝」という形式によって初めて、30代半ばという「朱夏のとき」を書くことができるとクッツェーは考えたのだろうか。長いあいだ温めてきたプロジェクトだと、作家自身は語っていた。
研ぎ澄まされたことばと、行間にちりばめられた貴石のような沈黙が、心にしみる作品だ。
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付記:J.M.クッツェーが3度目のブッカー賞を受賞したら、ある全国紙に掲載される予定で書いたものです。残念ながらブッカー賞ハットトリックならずで、ここに載せることにしました。
2009年10月7日水曜日
J・M・クッツェー『サマータイム/Summertime』──朗読
8月中旬、発売予定を半月もくりあげて出版されたJ・M・クッツェーの『サマータイム/Summertime』は今年、ブッカー賞ショートリストにノミネートされ、ずいぶん話題になりました。惜しくも3度目の受賞は逃しましたが、今回もまた授賞式/パーティー(?)には出席しなかったようです。
その新作から彼が朗読するようすを、つぎの2つのサイトで聴くことができます。
http://news.bbc.co.uk/today/hi/today/newsid_8278000/8278003.stm
http://www.nybooks.com/podcasts/
これは『少年時代』からはじまるフィクション化された自伝トリロジーの最終巻にあたります。本の詳細はいずれまた。
